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(過ぎたことは忘れちまえ)つらつら書くなり
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選挙結果を見て結構びっくりした。ここまで極端な結果が出るとは正直言って予想していなかった。結局のところ自民党の支持者は自民党に投票するのでは、と思っていたし、なんだかんだ言っても投票率が上がらないのでは、と疑っていた。が結果として史上最大の投票率および最大の離反率(自民党からの)ということになり、今回の結果となった。
それだけ世の中の変化というか劣化というものが急速で、普段政治に興味がない人でも自分の問題として考えるようになったということと、公共事業が減って地方での自民支配が一応の終焉を迎えたということが大きいのでは、と個人的に思っている。
 
今までの政権党が腐敗していることは誰でも知っているのに、その政党に投票する理由は、産業が少ない地方に公共事業でお金を持ってきてくれるから、というその一点しかない。このことは公然の秘密なわけで、その一点をやめてしまう、やめざるを得ない、ということは、必然的に投票行動の変化に帰結するわけだ。都市部では保守層よりリベラル層が多いというのは、そういった公共事業のうまみが少ない点が大きく作用しているに違いない。そして近年の公共事業削減は、地方に疑似的都市部を作り出した、ということ。あとはどれだけ市民生活に密着した政策を打てるか、もしくは先々にどれだけ期待が持てるか、という点でのみ選ばれることになる。今回に限って言えば、どれだけこの先に期待が持てないか、という点で選ばれなかった、という見方が大勢を占めているようだ。
 
後はマスコミの報道の力も大きく、ここにきて第四の権力と言われる潜在力を、よきにつけあしきにつけ遺憾なく発揮した。と思う。短期的には吉と出るか凶と出るかわからないが、長期的には吉と出るだろう。これで真面目な政治家が増えることを祈る。
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遅ればせながら去年話題になった「アイアンマン」をDVDで見た。マーベルコミック系はアメリカ色が強すぎて日本ではヒットしないなどと言われていたのも今は昔で、スパイダーマンだのXメンだのもヒットしているので、このアイアンマンがヒットするのも当然の流れといえる。
 
正直に言って、アイアンマンなるマンガは全く知らなかった。もともとはベトナム戦争時の戦争反対&賛成マンガ、だったらしい。原作のほうは、兵器会社の社長がベトコンにつかまって協力を迫られるんだけど、何とか脱出して、新しく作ったパワードスーツで戦うという話。Wikipediaではぼかして書いてあったが、どうも戦意高揚マンガっぽい感じだったのでは、と思う。結局、戦争の道具使って当時の戦争の相手をやっつけるという話だからね。
 
映画では、兵器製造会社の社長の主人公が改心?してパワードスーツを作って、自社が販売した兵器を壊すという話(あまり書くとネタばれになるから書かない)のような感じになっていたので、現代風にアレンジされているのだと思う。
 
まぁ現代版の娯楽作品として見ればいい。楽しみ方としては、CGかっこいい!メカデザインかっこいい!ぐらいかな!特にエンディングのワイヤーフレームっぽいデザイン画がすごく良い。

映画とは関係ないけれど、チャイルド44の続編の「グラーグ57」が発売されました。
原題のThe Secret Speechだと、一般の日本人には分かりにくいというのと、
続編だということがアピールされていて、すごくいい翻訳タイトルだ。
(ちなみにこの記事のタイトルの「スチールマン」はスターリンね)
というほど大した話でもない。

最近は本当に毎日パソコンを使って何かしらやっているので、目が痛くなってきた。
そういうこともあって、何かパソコンを使わずにできるようなことをしたいのだが、
いかんせん読書も目を酷使するので、何か別なものがいいのだ。
もちろん本も読みたいし、相変わらず乱読は続いているので、
それはそれとしてということだ。

でもそんなものが簡単に見つかるわけもないし、柔軟体操をしたり、ラジオ体操をしたりして、だましだまし体をいたわってやってきたのだが、ちょうどいいものを見つけたかもしれない。

以前は、本を読んだりパソコンを使ったりしたくないときに漢字検定の勉強をしたりしていたのだが、例の騒ぎのあと、なんとなくやらなくなってしまっている。漢字検定と漢字の書き取りは別物とはいえ、人間の脳というのは不便なもので、悪いイメージがついたものにはあまり近づきたくないらしい。

tsume.jpg今度見つけたのは、自分でも笑えるのだが、詰将棋です。
将棋なんてもう二十年以上まったくやったことがないのだが、
将棋がテーマのとあるマンガ(3月のライオン)を読んだら、
将棋の流れが全然わからず悔しかったので、本屋で詰将棋入門の本を買ってきた。

まぁこれが結構面白い。
しかも解けなくて悔しくて、気がつくと一時間くらいはあっという間に経ってしまう。
相変わらず地味なことをやっているが、頭の体操だと考えれば悪くない。
しかし、三手詰め(攻め、守り、攻めの三手で終わる一番初心者向けのもの)
でも全然解けなかったりするので、上達するにはかなりの時間がかかると実感した。
だからプロの棋士はみんな小学生ぐらいから特訓するんだな。

なにはともあれ、一冊分は解いてみようと思う。
96時間(原題:TAKEN)みたぞ。
久しぶりにフランス映画など見てしまった。リュック・ベッソンは結構好きで、結構見ている。明快なアクション映画が多いとはいえ、裏側にいろいろと仕掛けがしてあるところが良い。今回の映画は、娘を誘拐されたアメリカ人の元工作員がパリに乗り込んで誘拐犯の組織を追い詰めるという筋だ。ちょっと人によっては受け付けないような殺戮シーンがてんこ盛りな所がフランスっぽい。アメリカの映画だと、相手をコロス映像ではとにかく主人公がかっこいいように演出するのにたいして、フランス映画ではとにかく淡々と相手をコロス(レオンとかもそうだし、なんとかリバーもそうだった。そういえば日本の映画ではやられた方がとにかく悔しそうにふるまうという傾向もある。日本の場合、主客転倒によって主人公の優位性を引き出しているのかな) 終わり方も淡々としていて、まぁ、ハッピーエンドっぽいんだけど、あまり派手な演出はなくて、淡々と日常に戻ってゆくような感じ。とにかく最初から最後まで淡々と進んで行って、殺し屋の生活感のようなものをうまく表現してあったと思う。あと気になった点が、移民排斥意識の高まっているフランス人の瑠咽をさげつつ、移民社会からの反発を避けるために主人公をアメリカ人にしているところだ。非常にえげつないが、ハリウッドも同じかそれ以上にフランス人を虚仮にした映画を作っているからおあいこと言ったところか。

国立近代美術館で開催されているゴーギャン展に行ってきた。午前中に行ったのに結構混んでいて閉口した。内容としては、ゴーギャンの有名な作品を幾つかと、版画と浮世絵に影響を受けた流れを説明するためのいくつかの絵がまとめて展示してある感じ。
メインの絵について色々と解説してあったけど、個人的には違和感のある内容だった。というのも、キリスト教的テーマであるということを盛んに言い立てていたのだが、そういういわゆる典型的ヨーロッパ性というものから逃れたくてわざわざ絶海の孤島にまで行って絵を描いていたのではないのか。キリスト教的発想が根本にあるとしても、そのこと自体を表現するために描いたというより、画一的な発想を覆すための表現だったのだと思う。
まぁ、素人がいくら吠えても無駄だけどね。個人的にはあまり面白くなかったなぁ。
某のりなんとかの話じゃないよ。

yugatou.jpg最近いくつか詩集を買って読んでみた。具体的には、高村光太郎と中原中也を買ったのだが、はっきりと好みの違いがでる内容だった。高村光太郎のほうは、人生の伴侶を得て、自分の人生に意義を見出している感じがあるが、中原中也のほうは孤独で、人生の意義を常に問うているような文章だ。

詩というのは見方によっては暇人のお遊びでしかないが、それでも長い間読み継がれてきているものには、なにがしかの真実が含まれているに違いない。それは誰でも体験するようなことかもしれないし、珍しいものかもしれないが、多くの人の共感を呼ぶものだ。

個人的には、感性の唯一性に重きをおいて考えることが多いし、詩人というのも特殊な感性の持ち主であるはずだ。それでもなお共感したり、共感を呼ぶ文章を書けるのは、人間には、他者とかかわりたいという欲求が、食欲などと同じレベルで存在しているからだと思う。要するに、大事なのは、言葉の美しさではなく(大事ではあるが根本ではない)言葉による社会の一般化、人間関係の一般化、なのではないか。

社会の動きや人間の感情に対する洞察力・観察力、それを駆使して美しい文章を作り上げる、それが詩人の根本なのかな、と思う。
kawa.png今日は終戦記念日ということで、テレビなどでも特集が組まれていた。正直言って毎年気にしているわけではないが、今年は何となく気になる。世の中不穏だし、天気はおかしいし、自分の生きざまも順風満帆とは言い難い(個人的には大凶の年、浅草寺のおみくじが当たった)からだ。
 
戦争をしたことで、日本は周辺国から憎まれている。いまでも憎まれ続けている。どれだけ経済的なつながりが深まろうと、これから先もこの問題はずっとくすぶり続けるだろう。その上、日本の経済力が今よりもっと落ち込むようだと、意趣返しをされる可能性が非常に高い。
 
かなりの外国人労働者として日本に入ってきている。彼らの多くは劣悪な環境で働き、雀の涙の給料をもらい、道端で罵倒され、仲間同士で助け合って何とか生きている。
もし、日本人がそういうことをしなければならないような立場になったら、どうなるだろう?しかも今の世の中のように、他者を否定的にとらえ、批判することで満足しているような風潮が続いたとしたら?
 
外国に行って働かざるを得ず、仲間内で協力できず、孤立して生きるのか?生きられるのか?
 
私の住んでいる町から少し離れた所に工場地帯がある。川沿いにいろんな業種の企業が集まっていて、大小取り混ぜて数えきれないくらいだ。そういったところで働いている外国人は、意外と多い。そして、凄くまじめに働いている人が多い。
 
JR横浜線の、新横浜の隣の小机駅と鴨居駅の間に古ぼけた民家が密集している場所がある。最近そこにルーマニアかエクアドルの国旗を掲げているところがある。記憶に間違いがなければ、その住宅からさほど離れていない鶴見川沿いのアパートにずっとその国旗がかかっていた。要するに、日本でずっと働いていて、一軒家を購入するような外国人もいるということになる。「もし自分が外国人労働者なら、そんなことができるか?」「いや、むずかしい」と結論をつけざるを得ない。
 
日本は息苦しい国だ、と思うこともある。とにかく組織というものが重んじられ、組織以外のことはどうでもいいという文化がある。一方、海外(特に西欧諸国)では個人というものが重んじられ、もっと自由があると思われがちである。しかし、実際に自分が西欧の組織で仕事をしてみてわかったことがある。
彼らには、一般の(特に都市部の)日本人が享受しているような自由はない。
仕事はカネとコネだけで動くし、キリスト教的タブーが社会全般の規律になっていて、自由な考え方というものは実はあまりない。実力主義、と思われがちな西欧社会も、実際はカネとコネがある人間に資本を集中させて、その一握りの人間だけで社会を動かそう、ということなのだ。もちろんそこでは黄色人種の利益は後回しだ。
 
結局、日本人が一番居心地良く感じる国は日本だ。それに、どれだけ頼りなくとも、日本政府以外は日本人を守らない。日本の外には「ハレ」の日には何でも許されるといった文化がなく、場所自体が「ハレ」とされているところ(渋谷・六本木・青山・新宿・秋葉原など)もない。
日本の唯組織論には辟易するが、組織の外には世界で(たぶん)唯一の多様な選択肢がある。その中でこれからも生きていきたいなら、この沈下しつつある国をもっと盛り立てていかなければいけない。伝統文化も現代文化も、自分たちの生活に深くかかわっている。そして身近な外国も、自分たちの社会にかかわっている。
 
すべてを大切にするのは不可能だが、少なくとも考えてみることはできるし、何か一つを自分で守ってゆくこともできると思う。順番に試してみてもよい。
 
小さな積み重ねが、環境を変える、と考えてみよう。
まずは知ってみよう。自分の世界の外の事を。
他者を否定しても何もよくなることはない。
こう自分に言い聞かせた。
tsukiyo.jpgいま朝日新聞で森見登美彦が連載小説を書いている。「聖なる怠け者の冒険」という作品で、例によって無気力っぽい学生がとりとめもないことに執着する話だ。この作者は段々と筆力が上がっているような気がする。ばかばかしいとおもわれがちなことをさも重要であるかのように書くのがすごくうまい。実際考えてみると、自分以外は全員自分ではないし、自分にとって大事なものが他人にも大事に思えるかどうかはわからない。むしろ他人にとってはどうでもいい物が自分にとってはすごく大事なものだったりする。この作家は、感性の絶対的個人性というものをむき出しに描くことがうまくて、感心する。
 
新聞小説はまだまだ完結もしそうにないので、内容についてコメントしようがないが、一昨日くらいに本屋へ行ったら同じ作者の「きつねのはなし」が文庫になって出ていたので買ってみた。最近は文庫本でもやたらと高いが、この本の値段は500円。今時珍しい良心的価格だ。
 
収録されている4本の短編をとおして、きつね(というかケモノ?)がカギになっている。一つ一つの作品にそれぞれのしかけがあり、嘘と真の間をいったりきたりする。たとえば、前の筋のなかでのホラや偽の登場人物のようなものが、次の短編では実在のものとしてあつかわれている。日本の古典的怪談のような話運びも相まって、幻惑される感じが気に入っている。
 読んでいて、語り口が夏目漱石に似ていると感じる。文章の節回しというか、リズムのようなものが似ている。それとも単純に明治っぽさのようなものを出したいのだろうか。その辺は作者のことをよく知らないのでわからないが、一世紀前の様式美を意識的に追い求めているのかもしれない。

 作者の出身地の奈良も大学生活を送った京都も、日本の古典文化が集積されている都市である。あくまで個人的視点に立って言うと、ことばが蓄積されている土地である。文化は口伝にしろ文献にしろ、言葉によって残され、言葉によって体験されてゆく。絵画も広い意味では記号であるし、題や銘のない作品はほぼ存在しない。そうとらえれば、広い意味での伝達の手段としての「ことば」と考えてもいい。
 古典に日常的に触れていて、感受性が人並み以上にあれば、好むと好まざるにかかわらず自分の体や考えに蓄積されてゆく。そういったものが文章にしみているのが、この作家の魅力なのかな、と思う。
tettou.jpgこの間本屋の棚を端から端までなめるように見ていたら、たまたま丸谷才一のエッセイ集が並んでいて、ちょっとおもしろそうだったので買ってみた。
 
まずタイトルがいい「猫のつもりが虎」。これは有名な落語の「ねずみ」の落ちの部分から取ったタイトルだ。この「ねずみ」の落ちは虎のつもりが猫というオチが付いているのだが、それの逆というところがまた渋い。
 
私の敬愛する夏目漱石も落語が好きで、重いテーマを軽妙な語り口で描き上げるところが実にすばらしいと思っていたのだが、やはり昔の文化人は文語のみならず口語も大切にしていたのだなと思ったりもする。
 
内容は、まぁ当たり障りもないことがつらつらと書いてあり(エッセイだから当たり前か)、特筆するほど目を引くような内容ではない。やたらと外国の事物を持ち上げて(シベリアのアイスとか、ポルトガルの米とか)書いてあるところが、バブルっぽさを強調しているような気がする。が、旧かなづかいで書いてあるのが気になる。このエッセイは九十年代初頭に書かれており、明らかに旧かなづかいがそぐわないはずなのだが,,, 趣味なのか、なんなのかわからない。
 
旧かなづかいは面白いと個人的に思う。なぜ喋る音と、書く音をバラバラにする必要があるのか、まったくわからない。それとも昔はかうしやべつていたとでもいふのかい。不自然ぢやないか、君。
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