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(過ぎたことは忘れちまえ)つらつら書くなり
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一度書かなくなると、もう一度書き始めるのはむずかしいけれど、
正月に思い切って色々書いてみたら、
今度は特に書くこともないのに書きたくなってきた。

まあ無理やり話題を作るとすれば、
アマゾンプライムに登録したことだろうか。
まあ年末に無料期間を利用して、本当は解約するつもりだったのだけれど、
ためしに使ってみるかと考え直したのだ。

プライムにすると、午前11時だか10時までに頼んだものは、
同日に届くというかなり画期的なシステムではあるのだ。
便利だし、使ってみたいとは前から思っていた。

なぜ今まで使わなかったのかと言うと、
1:お金がもったいなかった
2:運送会社をこき使うのもどうかと思っていた
の二点が大きいですね。

当日便なんてのは、低賃金労働者を酷使して成り立っているサービスだし、
使わなくて済むなら、使わない方がいいのかもしれない。
でも、今年度からは色々な責任を負ってもいるし、
他人に気を使う余裕が亡くなってきたのも事実だ。

ここは自分のポリシーを若干まげて、
世の中の便利さを享受しようと、そういうことなわけです。
大体、自分のポリシーなんてもので得することはほぼないですしね、、、

しかし、実際つかってみて思ったのだが、
当日といっても夜の9時とかに到着するのだったら、
次の日に到着するのとあんまり変わらなかったりする。

しばらく使ってみて、また感想を書こうと思う。
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明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。
ブログを持っていること自体忘れかけるほどツイッターを使っていたけれど、
ネット上での根拠のない罵倒合戦を見るうちにツイッターもどうでもよくなりつつある今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

気が付けば年末で、色々とやり残したことがあるような気もするし、それなりにやりきった気もする。
こう書くといい加減な感じがするけれど、実際みんなこんな感じじゃないかな。

今年からは新たな職場で、新米にしては割と重要なポジションに付けたので、
かなり緊張感がある年だったと思う。
色々模索して、大失敗もしたけれど、それなりにうまくいったこともあり、
上に書いたような感想が出てきたわけで、決していい加減に描いたわけじゃない。

かなり企業の人とも知り合う年でもあり、いろんな価値観を見聞きする機会もあった。
それは同時に、身分の固定化や貴族化といった社会問題を間近に見ることでもあった。
何年も前からそういった問題には興味があったので、体験できたことは、今後に役立つと思う。

これでも人に物を教える職業についているわけで、
他人を説得する方法や、わかりやすく伝える方法について、
日々考え続けているが、方法論などまるで役に立たない相手にも出会ったりする。
例えばローマ字で書かれている外国語はすべて英語読みをするものだ、
という固い信念を持った人だ。
要するに物を自分で考える習慣がない人で、
こういう人に物を教えるのは至難の業だ。
翻って大企業の人は大体優秀だが、階級意識に凝り固まって、
他人のことをバカにする言動が目に付いたりする。

これを当たり前、仕方がない、で片づけるのではなく、
何らかの解決策を示すことが、職業的教育者の使命の一つではないか、
とそう考えるに至る一年間でした。


久しぶりに夏目さんでも読んでみようかと思い。
渋谷のブックファーストで「漱石文明論集」を購入した。

電車の中で読むのにちょうど良い面白さだった。

ちょうど明治のいわゆる文明開化の時期と、
現在のような海外資本による日本の産業構造の改造期と、
状況が重なっているように思えてならなかったため、
こういう本を読んでみようかと思ったのだ。

実際、むやみに海外のものを礼賛することはよろしくない、
ということは夏目漱石や岡倉天心も作中で言っている。

つまりこういったことは百年前から言われているのだが、
当時の日本の精神面と現代の日本の精神面も、
ほとんど変化が見られず(女性の解放が進んだとかそういうことはあるかも知れないが)
いたずらに知識の輸入に凝り固まっていて、全然進歩がみられないことに愕然とした。

日本の現代社会というのは、しばしばひどく保守的で、
変化を受け入れない特徴があると思っている。
特に企業社会は昔の武家社会をそのまま移行しただけ、
という感が強く、いつ封建主義社会へ逆戻りしても可笑しくない。
むしろ今戻りつつある、という考えが頭から離れないのだ。

上っ面にキリスト教的合理主義をかぶせた、
絶対排他的封建主義というのが、現代日本にピッタリくる言葉だ。
ただひたすらに海外向けにへらへらし続けて、
内部の構造だけは死守するぞという態度のみが現代に残っている。

そんなことをするならばむしろ日本的であるとはどういうことかを定義したり、
それを海外向けに主張したりすることができる方が、
(別に積極的に発信などしなくてもよい。一部の人が理解できればよい)
よほど人を説得できるし、説得できなくてもゴネ得できるのに、
と思えてならない。(中国とかインドとかがよい例)

要するに国内向けの駆け引き(の為の考え方)をする為に海外を見習うだけでなく、
海外向けの駆け引きをするために、もう少し国内のことを見直すべきじゃないか、
特に考え方を見直すべきじゃないかということを、
この数年ずっと考えているのだが、
なかなか世の中はそういう流れになっていかないな。

 先日「コクリコ坂から」を見てきたのですごく久しぶりにレビューでも書いてみようかと。

監督が「ゲド戦記」の吾郎氏ということで、
公開前から各方面で良くも悪くも噂になっていたようですが、
個人的感想としては「想像していたより面白い」と思いましたね。

ストーリーとしては、横浜の山の手地区にある学校に通う
俊と海の恋物語ということになります。
(最初の場面で見える港の向きから、山の手地区からの風景だとわかる)
メインで恋物語、サブで学校の交流物語をやるという王道中の王道、
ジブリらしく無駄な説明は一切ないストーリー仕立ては好感度高かった。
(あと2人で散歩するのが山下公園だったりとか、あのフェンスは昔からああなのかとか、
細かいところで横浜市民大歓喜なつくりでした(^_^; )

時代設定や、人物設定など、懐古趣味と思われるものも散見されましたが、
実のところこれらの設定は懐古を目的としたものではないと思います。
というのも、もしこれが懐古映画であったなら、これほどひどい映画もなく、
薄っぺらな時代描写しかないからです。

強いて懐古趣味の場面を探すとすれば、合唱のシーンでしょうか。
あれは昔の日本映画へのオマージュではないでしょうか。
また、映画的演出として自転車で坂を駆け下りるシーンなどは、
ベタすぎて批判の対象になるだろうなと思います。

しかしそれら(時代設定・背景設定)すべてが、
主人公二人の関係を成り立たせるためだけに用意された舞台であるという点で、
無駄のない良い映画ともいえるのではないか。
これは単純に男女がお互いに惹かれあうという描写のみに重きを置いた映画であって、
それ以外のすべては実はおまけでしかないというのが私の結論です。

おそらく自称反懐古派と自称フェミニストたちからは、
かなりの批判を受けるでしょう。
何しろ女性のお掃除部隊みたいなのが出てくるので、
もうその時点でアウトだろうなとは思います。

ただ前にも似たようなことがあったのを思い出しました。
古代ローマを舞台にした映画で、女性が高い地位についてない、
と言って怒る人がいましたが、
時代考証という概念を理解しているのか疑問に思いましたね。

この映画の対極に位置しているのが「モテキ」で、
ダメな男に素晴らしい女性が何人もよってきて、
ダメ男にダメだししまくるという映画で、
現代を舞台として恋愛物語をやろうとしたら、
こういうものにしかならないわけです。

しかしそれはジブリがやるべきことか?
と考えれば、そんなことはない!という結論になると思います。
むしろそういう映画の真逆を作るのがコンセプトだったのではないかと。

ジブリの映画が説教くさくて人を選ぶのは昔からで、
そういうことが鼻につく人はこれに限らずどんなジブリ作品でもダメでしょう。
Twitterをフォローしてくれてる人は知ってると思いますが、
先日若干いらっとすることがありました。

私は正直言ってお金がなく、そういうことを平気で口に出す人間です。
貧乏ぶって同情を引きたがってるカスだと思う人も多いでしょう。
まぁそれは仕方のないことなので別にそれは良いのです。

しかし、それを直接私に言うならともかく。
陰に陽に他人の発言の形を借りて、
何か事あるごとにチクチク突っついてくるのは、
ただ卑怯なだけだと思うわけです。

自分は公明正大な人間であるとか自負しているのがありありの、
大上段に構えたツイートを連投している割にはやることがセコい。
そういう人がいたので、ついつい熱くなっていろいろ書いてしまいました。

ただ思ったよりも影響が大きかったようで、
数日間TLが静かになってしまいました。
本来平穏な情報交換の場であるはずのtwitterなので、
あまりけんか腰の事は書くべきではありませんでした。
この場を借りてお詫びいたします。

 色々あるのだけれど、いちばんはまったのが、ustとかニコ生とかですね。
素人の生放送で、自分とは生まれも育ちも住んでいるところも何もかも違う人間と、チャットを通じて話ができるという画期的なシステム。

有名どころでは堀衛門とかカツマとかその辺がネオリベ布教のために使っていたりもするけれど、むしろ社会的な側面として面白いのは素人の放送です。

上に挙げた2者が、それぞれの信徒を集めるために民衆とじかに接するために使っているのと同じ理由で、生放送のネットワークを通じて夜な夜な趣味のつながりが広がっています。

IT関係やオタク関係など、あまり近しい人に理解してもらえない趣味を持っている人などが、ネット上のコミュニティに集まり、10人~1000人程度の小集団を形成しています。
また、それぞれのコミュニティは完全に独立しているわけではなく、似たような目的を持つコミュニティであればメンバーは重複しています。ようするに、ネット上でのサークル活動のようなものです。

どのような集団にもありがちなことですが、
ネット上の集団とは言え、メンバーの均質化というのが見受けられます。
性別、年齢層、社会・政治的信条など、趣味の範囲での付き合いとはいえ、
全く考え方が合わない人間とはchat越しでも話しづらいようです。

興味深いことに、ほとんどの場合は日本の「普通の」社会からは、
抹殺された人間がメインで活動しているようです。
夢破れた元歌手や元俳優、ゲーム廃人、等などが、
個人レベルでそのある程度磨かれた能力を活かして活動している様からは、
人間のしたたかさを感じます。
また、現代社会の意外な懐の深さも感じます。

とかくネット越しの活動と言うと、不健全なものに思われがちですが、
盛んなコミュニティなどでは、メンバーの取り組みは真摯かつ真剣です。
では、一旦「普通の」社会の枠から外れた人間が大手を振って活動できる場所が、
こういうバーチャルな世界にしかないのはちょっと残念ですが、
生体廃棄物(まけいぬ)を大量に生産する選択をした日本社会では、
こういった場は間違いなく必要であるのでしょう。
 よく見たら前回の更新は地震の直前の日付だったのね。

地震の瞬間は翻訳の仕事が入っていて、小さなビデオブースの中にいました。
隣の英語翻訳の人と雑談してて、今日は天気がいいねーなんてことを言っていたら、
ゆっくり横揺れしだして、次第に大きくなってきて、ものが上から降ってきて、
机の下に隠れたけどベニヤ板にむき出しのボルトが打ってある仮組の机で、、、
本気で死ぬかと思いました。

結局当日は電車も復旧せず、会社に泊まり込みになりました。
暖房も電気も普通にある場所だったので割と恵まれていたかもしれません。
ネット環境も普通に使えましたしね。
電話はかからなかったけど、ネットのメディアは本当に役に立った。
twitterもustもニコ生も全部役に立ちました。
リアルタイム性の高いメディアは災害に強いですね。
ただ、どれもこれも電気が来なければ使えないものですが。

原発が爆発しなければ、復興に向けていろんな活動ができているだろうに、とも思います。結局地震と津波が頻発する日本では危険度が高すぎるエネルギー源なんだというのが個人的な結論ですね。あと、地震にかこつけて偏った言説をまき散らすヘイトスピーカーも山ほどあらわれました。どれだけ冷静を装っていても、災害を利用して人を洗脳しようとする人間は下種の極みだと認定させていただこう!

四月から新しい職場に行く予定が五月にずれ込んでしまって、
なんとなく手持無沙汰な感じがしてます。
この時間を利用していろいろ執筆活動をしなければいけないな。
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